快楽主義の哲学


先日、西宮の実家に帰ったときに、昔使っていた本棚を眺めていたら澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』を発見したので、鞄に放り込んで東京への新幹線の中で読み始めた。

「人生には、目的なんかない」から始まったと思ったら、カール・ブッセには「幸福は、この世に存在しない」と、宮沢賢治には「健全な精神こそ、不健全である」と、ソクラテスには「おのれ自身を知れ。とは愚の骨頂」と喧嘩を売り出す始末。しかし、その論理は明快で文章は読みやすく、すっかり彼のペースに引き摺り込まれる。ちょっと澁澤龍彦的で無い陽気さを感じつつ、ではあるのだけれども。

ストア学派の禁欲主義とエピクロス学派の快楽主義の関係についても、非常にわかりやすく説明してくれている。(p.56-57)
エピクロス哲学もストア哲学も、自然と一致して生きることをモットーにしていたのです。自然と調和して生き、なにものにもわずらわされない平静な心の状態、すなわち、アタラクシアに達することを求めていたのです。
この二つの哲学は、根本において共通の目的、死の脅威や時間の脅威から人間を解放することを追求していた、といってもよいでしょう。 
追求する目的は同じであるが、その方法は大きく違う。  
ストア哲学にとって、「自然と一致する。」とは、外界に対する一種の緊張を意味し、エピクロス哲学にとっては、一種の緊張緩和(リラックス)を意味します。 
なるほど。さらに、エピクロスの主張はなかなか意味深い。
「死はわたしたちに無関係である。」と彼(=エピクロス)はいいます。「なぜなら、わたしたちの存在するかぎり、死は現に存在せず、死が現に存在するときは、もはやわたしたちは存在しないのだから。」と。(p.64)
このような死の想念から出発する快楽主義は、面倒な現実に背を向け、静かに暮らすことを理想とし、社会生活を否定する「隠者の思想」へと向かう。途中の論理のつながりはよくわからないが、まあとにかく澁澤はそれを肯定し賛美している。

先日読んだマルクス・アウレリーウスの『自省録』に、これに関連した一節がある。
人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることができるのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。(『自省録』p.49)
自分自身の魂の中にひきこもることを、一時的に精神的な意味で隠者になることだと考えれば、地理的な意味での隠者を志向するエピクロス学派とストア学派とはやはり似た思想なのだろうが、社会との向き合い方という観点では正反対なものとなる。

自らの魂の中に「平和な閑寂な隠家」を築くことは簡単ではないだろうが、マルクス・アウレリーウスの考え方には強く惹かれる。

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