宗教を生み出す本能



大昔から世界中にある「宗教」というものを「進化論」という切り口から読み解こうという本。
まだまだ仮説の部分も反論がある部分も多いようだが、非常に興味深い論理展開で刺激的だった。

以下、ほとんど引用ですみません。でも、わくわくするでしょ?

宗教行動をする本能は、たしかに人間の本性として進化してきたものである。宗教を実践する集団は明らかに生存上有利だったため、宗教行動は少なくとも五万年前、おそらくもっと早い時期に私たちの神経回路に書きこまれた。 
言語と同じく宗教は、遺伝的に形成された学習能力の上に築かれた複雑な文化的行為である。人は自分の社会の言語と宗教を学ぶ本能を持って生まれてくる。しかしどちらの場合にも、学ぶ内容は文化から与えられる。言語と宗教が社会ごとに大きく異なるゆえんである。
FOXP2という遺伝子は、文法能力を含む言語発達との関連が示唆されている。(Wikipedia「FOXP2」
言語が考えを伝えるシステムであるのと同じく、宗教行動は共通の価値と感情を伝えるシステムである。このシステムを効果的にする遺伝的変異は、自然淘汰でただちに強化されたであろう。自然淘汰が個体レベルと同じように集団レベルでも起きた場合には、なおさらそれが言える。
進化の原動力である自然淘汰は、つまるところ生存と、誰がより多くの子孫を残すかという問題である。宗教行動の社会的側面の多くは、集団内の強い結束や、戦時の士気の高さといった利点をもたらし、メンバーはより多くの子孫を残しただろう。 
宗教行動は人間性の進化した部分と考えるおもな根拠は、宗教の普遍性にある。あらゆる社会になんらかの宗教がある。世界じゅうに存在する宗教は、文化によって大きく異なるとはいえ、共通点も多い。宗教行動が持つそういったほぼ不変の特色には、遺伝的基盤があると考えられる。 
人類の進化の過程で、宗教行動は、社会秩序を脅かすふたつの難問(=内部の寄食者と外部の敵との戦闘)を解決した。宗教行動によって、人々は道徳的本能にしたがい、共同体を守るためにいかなる犠牲も払うようになった。宗教は、人々の心のなかに行動を監視する厳格な監督を置き、新しいレベルの社会的結束を実現した。 
しかし何人かは、宗教行動はたんなる偶然の産物であり、自然淘汰上、有利だったほかの性質から生じたと主張する。(中略)宗教行動を非適応とする有名な生物学者に、スティーブン・ピンカーとリチャード・ドーキンスがいる。 
たいていの進化生物学者は、理論上、特殊な状況で自然選択が集団に働くこと(集団選択)はあるが、おもに作用するのは個体レベルであると考えている。
集団内では利己主義が利他主義を打ち負かす。集団間では利他的集団が利己的集団を打ち負かす。
この2つの力のどちらが強いと見るかで、集団選択を疑問視するか擁護するかにわかれるらしい。
現生人類の歴史のうち最後の0.7%にあたる、わずか350年ほどまえから、宗教の力は低迷しはじめた。世俗国家ができたことや、近代的な知識によって教義の前提が崩れたことが原因だ。 
進化のきっかけになるのは、染色体変異、遺伝的浮動、淘汰の三つだが、そのうち染色体変異と遺伝的浮動は無作為に発生し、淘汰は決まった目的もなく起こる。しかし人間の進化にはもうひとつきっかけがある。進化の推進力としてまだ認められていないのは、おそらくその特徴が明らかになりはじめたばかりだからだ。そのきっかけとは「人間による選択」である。 
保守主義にはさまざまな長所がある。人々は自分の信じる宗教に、つねに変わらず廃れることのない価値観と原則を体現してほしいと思っている。しかし、三大一神教が創設されてから文化はいちじるしく変わった。世俗化が進んでいるのは、宗教が聖典という枠のなかにとどまり、人々の信頼を失いつつあるからだ。宗教が廃れずにいるのは、人々がなにかを信じたいと思っているからであって、歴史に関する宗教側の主張に合理性があるからではない。
宗教は人間の創造力の最高の現れという見方もできよう。宗教は、人の心に生じうるもっとも深い感情を呼び起こし、自分の利益ではなく、より価値のある、社会や文化や文明の健全な存続に目を向けさせる。 
人間の文化の産物である三大一神教は、ずいぶんまえに発展の限界へ到達し、複雑さを増す人間社会と、体系的に大きく広がった知識に遅れをとっているのではないだろうか。もはや多くの人々が、宗教行動に向かう生来の性質をのばそうとしないので、人間性の重要な部分が生かされなくなっている。これは人々が悪いのだろうか。それとも社会のせいなのか。あるいは、既存の宗教がいつまでも変わらないせいなのだろうか。

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