冷やかな数字と、温かく繊細な優雅さとの戦い ― 『マイケル・ジョーダン物語』


『マイケル・ジョーダン物語』を読んだ。
いや、本当は、この本をテーマ本にした読書会が終わっただけで、600ページ強ある本の200ページほどまで読んだところ。まだ全然読み終わっていない。

読み終わった本ですら「近いうちにブログに書こう」とか思っているうちに時間が経ってしまってなかなか書けないのに、「読み終わったらまとめてブログに書こう」なんて思っていると、これはもう間違いなく陽の目を見ないまま終わってしまうだろう。

そんなわけで、とても中途半端な状況ではあるけれども「あまり力まずもっともっとブログを書こう」と最近思っていることもあって、キーボードを叩いている。


さて、マイケル・ジョーダン。

バスケットボール周辺のことに疎いボクでも、さすがに彼のことは知っている。
「バスケットボールの神様」だ。

八百万の神がいる日本でも、その分野で別格の者でなければ「神様」とまでは言われない。しかし、Godのいるアメリカにおいてですらも、彼はそう表現されることがあるようだ。

80年代のNBA人気選手で最高レベルのアスリートであるラリー・バードでさえ、次のように言ったという。
That's God disguised as Michael Jordan.
「あれは、神様がマイケル・ジョーダンの姿をしてるんだ。」

そのマイケル・ジョーダンのプレーについて、ボブ・グリーンはこういう風に表現している。
ジョーダンのコート上でのふるまいは、ときとして実に華麗でありながら、あまりにさりげなく見えるがために、それがあたりまえのことにさえ思える。守備を抜いて宙に浮かび、手から手へとボールを移し、目は遠くのある方向だけを見ている。それからバックボードに向かって投げるとボールはガラスに軽く触れてから四分の一回転し、ロープの編み目にさざ波を立てることもなくネットに沈んでしまうのだ。
そして、もうしばらくジョーダンの描写を続けた後に、面白いことを書いている。
対レイカーズ戦でこういう瞬間に、統計スタッフがぼくに一枚のスコアシートを渡した。この本質的な不合理性に、ぼくは再びショックを受けた。ほんの数フィート前にはジョーダンがいて、不可能としか思えない輝かしいことを行っているというのに、ぼくの手の中には、それをすべて数字にまとめた一枚の紙切れがある。ぼくは下を見て、彼のシュートの成功率がどれだけかを確かめた。そして目を上げたとき、彼は片手を広げ、もう一方の手は敵の守備陣が長く伸ばした腕の下でボールをくねらせ、ゴールに向かってボールを柔らかく回転させた。冷やかな数字と、温かく繊細な優雅さとの戦いである。

この箇所を読んで、経営のことを連想した。

経営も区切りごとに、経営者の成績表とも言える財務諸表に結果をまとめるし、その数字を良くするべく経営者は努力している。

しかし、その財務諸表というのは、営業に行ったり、プロジェクトを推進したり、システムを設計・開発したりという会社の日々の運営の結果を数字にまとめたものだ。その数字にまとめられる前段階には、必ずそこに関係する社内外の人々の物語があり、血の通った個人とその集りであるチームの活動があり、意思や感情がある。

毎日の営みは、なかなかジョーダンのように「優雅」というところまではいかないが、それでも「温かく繊細な」ものではあって、この現場こそが価値を生み出す源泉でもある。

バスケットボールのプロフェッショナルたちが、勝敗にこだわりつつもやっぱりバスケットボールを好きでいるように(この本の違う箇所で、それがよくわかるところがある)、僕にとっても財務諸表は大事なものなのは間違いないが、経営をやっている一番の理由は、結局のところ「温かく繊細な」経営の現場、それが好きだからなんだなあ、と思う。


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あと、こんなことも書いてあった。
「ぼくがスポーツを始めたのは、どうしてだと思う?」と彼は言った。「女の子にもてたかったからさ」

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