生きている人間と死んでしまった人間 ― 『モーツァルト・無常という事』
読書会で小林秀雄著『モーツァルト・無常という事』を読んだ。
小林秀雄が若い頃、道頓堀をうろついていたときに、突然、モーツァルトの交響曲第40番が頭の 中で鳴ったというエピソードが「モーツァルト」にあったので、40番をクレンペラー、 ブリュッヘン、トスカニーニ、カラヤンの指揮で聴き比べ。読書会 というよりは音楽鑑賞会になった。指揮者によって演奏の速さや音のつなげ方(「アーティキュレーション」という言葉も覚えた)がずいぶん違っていて興味深かった。
あと、「無常という事」の中にある、
小林秀雄が若い頃、道頓堀をうろついていたときに、突然、モーツァルトの交響曲第40番が頭の
あと、「無常という事」の中にある、
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」86ページという部分を以前にどこかで読んだことがあり、印象に残っていたのだが、これが小林秀雄の発言だったことは覚えていなかった。どこで読んだのだろう。